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さあ、田んぼ開きだ!(後編)

 ぴちぴちいきのいい遊のこどもたちです。

見回る小さい子
 作業開始前田んぼの様子を見回る小さい子たち

どろんこ大地
 入学して4日目の2年生男子。やっぱりやってくれました。
どろんこ大地2

作業3
 みんなで一緒にやってたはずなのに…
置いてけぼり
 ねえ、待ってー。

泥だんご
 作業終了後なぜだか始めてしまう泥だんご作り。9年生女子もいるなあ。

さあ、田んぼ開きだ!(前編)

 4月11日、いよいよ小野路の田んぼの作業の始まりです。
 
田んぼ1
 遊のみんなを待っていた田んぼ

ごあいさつ
 遊のみんなを待ってくださっていた地主さんにごあいさつ

作業1
作業2
ネット
ネット2

 以下は、写真班からの報告です。

 今日は籾み撒きをしました。昨年は雨に流されて全滅してしまったので、今年はSIMONさんがケースとネットを用意してくださいました。
 小野路はいつもと変わらない風景だけに、、あの空間にいると、ウィルスのことなんかすっかり忘れて田んぼ作業することができました。
青空

 田んぼの持ち主のおばあちゃんが子供たちが大勢来てくれたのでうれしそうでしたよ。
 きれいな空気の中にいると、ここはウィルスが入り込めない異次元空間なんだと思えて仕方ないです。下界に戻って、あぁそうだったと現実を思い出しました。


カラス

伊豆分校から二色のニューサマーオレンジが届きました。(4月9日)

20年4月9日オレンジfrom伊豆

 「長い春休み中」のKENTAとKOTOちゃんが、木に登って取ってくれたそうです。ありがとう。

入学式もひっそりと。

 三学期発表会に続き、待ちに待った入学式も、「ひっそりと」開催しました。

20年4月8日南大地入学

 早めに咲いたのであっという間に散ってしまうかと思った桜がせっかく長もちしてくれたのに、毎年恒例のお花見もなし。

20年4月8日桜
 少人数で記念撮影だけはしました。

 26年目に突入した自主学校遊。面白い年になりそうではあります。
 今年度も引き続きご支援をお願いします。

三学期発表会の写真ができました。

 3月20日に「ひっそりと」行なった発表会の写真が、撮影班から送られてきたので、少しご覧に入れます。

きっぷくん梨花
 5年生の女子が赤ちゃんの妹のために「木の時間」に作ったお人形。ちゃんと腕や足が曲がるようになっています。

マーチ組算数
 舞台の上一面に撒かれた木の実を拾い集めるこどもたち。マーチ組算数の発表です。

のどか英語
 4年生女子。英語のノートのお気に入りのページを見せてくれています。

あかりきれいな本
 「きれいな本」をもらって、妙に照れる小2男子。
 「きれいな本」というのは、遊の通知表のようなものです。詳しくはこちらをクリックしてください。
 みんなの「きれいな本」が勢ぞろいすると、ほら、ご覧の通りです。

きれいな本全員

選り抜き『遊のいろは』(最終回)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「卒業式」その二 (2011年卒業式「ごあいさつ」より)
 開会にあたって少しお話させて頂きます。
 まずは、災害で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。そして、苦しい生活を余儀なくされていらっしゃる方々が一刻も早く安心安全を取り戻されるようお祈り申し上げます。また、この瞬間も最前線で命を賭して活動なさっている方々に感謝を捧げます。
 本日は困難な状況下、Matsunaga Hirokiのためにお集まり下さり本当に有難うございます。Hirokiはほんとうに幸せ者です。
 実は本校は、1995年、阪神淡路大震災、そして、地下鉄サリン事件の年に開校しました。
 この二つの出来事は、現代文明の虚妄や、ぼくたちの心の闇を開示しました。しかし、日本社会はそこで踏みとどまることなく、その先の断崖に向かって、さらに猛スピードで進みつづけていくようでした。それは、命の声に耳をふさぐしかない奇妙な生きものの群れに思えました。
 ぼくたちの生命をいつのまにかむしばみ削っていくものから、子どもたちをどう守るか。それが、ぼくたちの最大のテーマでした。そして今も最大のテーマでありつづけています。
 生命を根柢から脅かすもの。それは、放射性物質だけではありません。さまざまの物質の影響ももちろん重大ですが、いちばん大本の問題は、ぼくたちの思考様式や精神のありようではないでしょうか。
 現代社会に広く行きわたり、知らずしらずのうちにぼくたちの中に忍び込んで、ぼくたちの血や肉や骨になっているような考え方、周りの大人がまずそこから脱却しないかぎり、子どもたちの全うな成長はありえない。そう考えて、そこに軸を置いてきました。
 命をちぢこまらせ、すりへらすもの。ぼくたちは、それと戦いませんでした。抑えこもうとしませんでした。抗ったり、固く身構えて身を守ろうとするだけでは、結局同じ土俵の上での勝負になってしまい、根本的な解決にはならないと考えたからです。
 それよりも意識をし、光を当てることを選びました。肩すかしをくらわせてやりました。脱臼させてやりました。違う時間の流れに身をひたそうとしました。深い水脈に根をおろし、すっくと別次元に立つことを選択してきました。
 以上のような努力を総称して、遊では
「筋金入りのノー天気」
と申しております。

 各地の学校では、様々な理由で卒業式などの祝賀行事が中止になっているとうかがいますが、本日ぼくたちがこの式を催す決断を下したのは、今述べたような理由からです。
 今日のこの会が、目に見えない砂漠への一本の植樹行為でありますように。
 あるいは、いつ終わるとも知れぬ闇の中での点火の儀式でありますように。
 今日ここで点した小さな聖火を携えHirokiは旅に出ていきます。ここにいらっしゃる皆様にも、この式場からそれぞれにささやかな光を持ち帰って頂ければと祈念いたします。

 なーんて申し上げましたが、あくまでも遊の卒業式です。どうぞゆったりご覧下さい。大いに笑い、そして、ちょっぴり涙を流し、最後までお付き合い頂ければ、これ以上の幸せはありません。
 ご清聴ありがとうございました。
 では、卒業式を始めます。(2011.3.20 和知誠一郎)

選り抜き『遊のいろは』(その十三)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

★遊のいろは 「た」その二
「立つ」
 遊の行事にお越しになる方には、是非子どもたちの立ち姿に注目して頂きたい。その子の遊年齢が一目で分かります。
 遊にはいりたての頃は、どこかに妙な力がはいっていたり、何となく危うい感じがしたりしていたのが、年を経るとともに余計な力が抜け、かしいでいたところが真直ぐになり、お腹に力がついて安定感が増し、足裏は地面にぴったり吸いつき、背骨にはすーっと気が通ってきて、比喩的に言うと「太く」なってくるのです。
 そんな立つことを遊の子は、朝の会で輪になる時、皆の前で自分の「誕生日の詩」(次項参照)を朗唱する時、ヨガやオイリュトミーの時その他で日々稽古し、発表会などで目撃されてしまうわけです。(本人たちにはそんな意識は全くないでしょうが。)
 六月十九日(日)に行われる夏至祭りは、「目撃」の絶好のチャンスです。みなさん、是非いらしてください。
 遊の子たち何人かの立ち姿が絶妙な位置取りで並ぶと、いい条件の下で育った木立を眺めている時のような幸福感があります。まだちゃんと立てていない担任は、そんな気持ちのよい景色の邪魔にならないようにくれぐれも気をつけなくては。
(補)昨日渋谷の映画館で清水宏監督の『子供の四季』(1939)を観たのですが、主演の兄弟だけでなく、画面に登場する全ての子の立ちっぷりが素晴らしくて、感動してしまいました。ああ!(by52)

 「誕生日の『詩』」
 遊にはふつうの学校の通信簿の代わりに「きれいな本」というものがある。(いずれ「いろは き」でご説明します。)
 その巻頭に担任がその子に向けて作った詩のようなものを載せていたのだが、生徒数が増えて三学期末に一気に作るのが大変になったので、ある時から誕生日にプレゼントすることになり、現在に至っている。
 このブログでも今までに何回か実例をご紹介してきたが、今回は立つことをテーマにしたものを二つ読んで頂くことにする。
 初めのは、まだ「きれいな本」時代だった2003年に中三になる女子に贈った。後のものは2013年、17才になる生徒のために書いた。「いろは よ」の「洋裁」の項に登場した酪農男子である。

        核
     まっすぐに立つ
     足は地球に根をおろし
     頭は天の星を頂く

     まっすぐに立つ
     背骨に光が流れる
     そうして
     同じ姿勢で立つ遠い仲間と
     本当の中心で
     いちばん深い場所で出会う


       立ち上がれ
     ほかほかと
     湯気の立ちのぼる
     生まれたての仔牛が
     ほら
     もう すっくと立ち上がった

     人間の赤ちゃんは
     一年前後で立ち上がる
     四ツ這いの安定を放棄し
     腰痛と痔疾と胃下垂の可能性を引き受け
     手に入れる
     不均衡と未決定の自由
     手と脳の可動域の拡大

     時が「たつ」
     布を「たつ」
     旅に「たつ」
     「たつ」という語には
     「わかれ」の含意がある
     二本足で立つことを始めて
     人間は仔牛の世界と分離した

     だが これからの僕らには
     新しい立ち方が必要だ
     均衡感覚を調律し直し
     もう一度大地に立つことから
     習い覚えなければならない
     小さな子どものように
     雲をつかもうと
     虹をとろうと立ち上がらなければならない

     星々と肩を並べ
     地球の裏側まで遠望するために
     今 僕たちの内側で
     目覚めかけている何か
     何万年もかけて
     立ち上がる何か

     ほら
     生まれたての仔牛は
     もう すっくと立ち上がったけれど(by52)

選り抜き『遊のいろは』(その十二)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「夢を見る」その二
 (前略)
 中・低学年の授業だと初めと中間と終わりと三回しーんと静かになる時間があるんですね。授業の最初にフィンガー・シンバルやグロッケンの音に耳をすます。笛や歌やからだを使う課題で心を解き放った後、目を閉じて遠くの音を聴く。そして、メインの課題でちょこっと頭を使って意識が目覚めた後、静かにお話を聴く。
 昼と夜の変化のように、月の満ち欠けのように、四季の移り変わりのように、授業の中にも静と動、ぐっと集中する時間とぱーっと広がっていく時間の区別を作って、大袈裟に言うと宇宙のリズムを取り入れることで子どもたちの魂が思い切り深呼吸できるような、そんな流れになっている。このことも子どもたちが元気になるポイントかなと思っています。
 で、今挙げたようなことと同じことなんですが、別の言い方をすると遊の小学校の授業の中には夢を見る時間が相当保障されているんですね。知的にものを考えている時間が目覚めている時間だとすると、想像力や感情を働かせている時というのは、お話を聴く時間なんてまさにそうなんですが、半ば夢を見ている時間だと思うんです。
 人間は眠ったり夢を見たりして活力を得るものなのに、普通の学校では目覚めていることのみ求められる。こりゃ疲労しますよね。夢見る時間がちゃんと組み込まれている遊の授業は、長丁場でもかえって力が湧いてくる。
 で、今、授業のおしまいのお話のことに触れましたけど、これが至福の時間なんですよ。低学年ではカーテン閉めて、時には雨戸まで閉めてロウソクを点してお話をするんですが、小さい子ども、特に九才以前の子どもというのは自分と他人の垣根がものすごく低くて、ほとんど「いけいけ」なんですね。だからお話が佳境にはいるとその場にいる人間が「ひとつ」に溶け合って、僕もその中に引きずり込まれて、同じ夢の中を漂うんです。これは静かだけれどちょっとした祝祭なんですね。それでお話が終わってロウソクを消してふっと我に返ると、適度の睡眠をとった後のような、ちょっと生まれ変わったような新鮮な気分になって。(後略)
 (「遊の目ざすもの」和知誠一郎 TECO第12号より)

選り抜き『遊のいろは』(その十一)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「礼」
「遊のいろは ろ」の「論語」の項には「『詩に興り、礼に立ち、楽に成る』なんて、まさに遊の教育理念そのものだし」と書いた。ここの箇所をArthur Waley(源氏物語の翻訳でも有名なケンブリッジの碩学)の英訳で見てみると、

Let a man be first incited by the Songs,
then given a firm footing by the study of ritual,
and finally perfected by music.

となっていて、「興於詩 立於礼 成於楽」という簡潔な原文と比較してみると、Waleyの苦心の跡が偲ばれる。
 遊の高校生と一緒にWaley訳と原文を読み比べるという授業をすると、
「二行目、長っ!」
というような感想が返ってくるのだが、長いのに漏れ落ちているものも多い気がして、
「この『礼に立つ』の『立つ』にはもちろん、精神的にしっかりとした足場を持つという意味もあるけど、儀礼の所作を通して、身体を調えるという解釈もあるみたいなんだよね。日本には『立ち居振る舞い』なんて言葉があるから、なんとなく理解しやすいと思うけど。」
と付け加えたりする。まあ、身心の両面に関係するということで「遊のいろは た」の「立つ」とつながってくるし、「詩」「礼」「楽」という順序も、非常に納得がいくので、「遊の教育理念そのもの」などとうそぶきたくなるわけです。
 それにしても、Waley訳の末尾の
and finally perfected by music.
「最後は音楽で(人としての)仕上げをする」
というのがむちゃくちゃかっこいいというのは、高校生たちも同感してくれるようです。
(補)遊の卒業生の赤ちゃん第一号、スコットランドとのダブルRaiden君は、漢字では「礼伝」と書きます。(Wachinho)

選り抜き『遊のいろは』(その十)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「寝かせる」
 大切な印象が眠っている間に心の深くに沈み、未来のしかるべき時を待つと書いた。ほんとうは心の小箱にしまわれ、開封の時期を待つと書きたかったのだが、それでは、しまっておいたものが、しまっておいた場所から、しまった時のままの状態で出てくるように受け取られかねないので、やめた。
 実際には、沈んでいたものは、原形をとどめぬほどドロドロに溶けてしまったけれど絶妙な味で栄養も満点のものになっていたりする。羽が生えて、跡形もなく飛び去っていたりもする。
 一般のテストでは、保存していたものが、そのままの形で取り出されないとまずいことが多いが、それでは、生きたものではない。従って、力もない。
 生きた力あるものは、しばしば時間をかけて寝かせることで誕生する。そして、思わぬ時に思わぬ場所で思ってもみなかった形で力を発揮する。
 そんなわけで、今日も遊では「仕込み」が行われる。吟味され丁寧に仕込まれた原料は、子どもたちの内で、パン種のように、サナギのように、味噌や魚醤や肥料のように、じっくりと寝かされ、時を待つ。(by52)

選り抜き『遊のいろは』(その九)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「根っ子」
強くて深い根っ子があるから
大地をしっかりつかまえられる
嵐が来ても耐えられる

大きく枝を広げているから
実をどっさりとつけられる
風のおしゃべり聞きもらさない

太くて高い幹だから
小さな仲間を守ってやれる
どんな遠くも見わたせる

私は立った
強くて大きい

 以前十才の女の子に贈ったものだけれど、その子に限らず遊の子どもにはどの子にも、こんな風に育ってほしいと願い、こんな風に育つはずだと信じているわけです。(by Wachinho)

選り抜き『遊のいろは』(その八)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「守る」
 子どもが小さければ小さいほど、自分の周りにあるものを、いいものも悪いものも思いきり吸収する。そして、大人では考えられないくらい深く影響される。その影響は、心にもからだにも及ぶ。だから、子どもの「触れる」ものについては、出来るだけの配慮をしたい。
 不自然なもの、生き生きしていないもの、硬くて冷たいものは、極力取り除きたい。氣をもらって子どもがどんどん元気になるようなものをそばに置いてあげたい。
 子どもの側から働きかけられないもの、子どもが受け身のままにさせられるものは、与えたくない。子どもたちは、石ころ一つ、棒切れ一本、布一枚でも、想像力の翼を思いきり羽ばたかせることができる。そして、小さい頃存分に想像/創造性を伸ばしておくと、それが十代からしなやかで自由な思考力に姿を変えていく。子どもを車で「運搬」ばかりしてちゃんと歩かせないと、歩く力「立つ」力「ふんぎる」力が育たないように、既に出来上がったものばかり与えていると、子どもの想像/創造力は、廃用性萎縮を起こしてしまう。こんなもったいないことはない。
 子どもが喜ぶもの/ことが、子どもにとって本当は良いものでも必要なものでもない場合が多々ある。食べ物については、安心安全に気を使っていらっしゃる方が多いと思うが、子どもの心にはいっていくものにも、同じように、いや、からだの食べ物以上に気を配れないだろうか。「本物」に対する子どもの味覚や嗅覚を損なうような添加物だらけのものや、子どもを早く大人化させようとするホルモン剤入りのものは、気づかれないようにそっと遠ざけたい。
 子どもが子どもでいられる場所、子どもが本来持っているものを全面的に発揮できる場所。そんな環境を守っていきたい。(by53)

選り抜き『遊のいろは』(その七)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「ゐる」
♪We are here!
「歌う」の項に書いたように、子どもたちには「今ここ」にゐることが完全にできる。でも、そんなエデンの時期を過ぎるにつれ、人は「今ここ」にゐられなくなり、来し方行く末に思いを迷わせ、他人の目を気にし、ここではないどこかをさまようようになる。
 歩きスマホの人だけが放心しているわけではない。僕らのほとんどは、一日のほとんどを上の空で過ごす。「向き合う」ことができていないとも言える。
 電車に乗っていると、子どもと並んで座っているのにそばにゐないお母さんのどれだけ多いことか。
 同じ空間に位置しながら、生徒とともにゐない教師、患者とともにゐない医師の話もしばしば耳にする
 翻ってみて、今日僕は、何秒間子どもたちと一緒にゐられただろうか。
 来週から遊の二学期は伊豆合宿でスタートするが、いつも合宿では、朝の散歩の後に呼吸法の時間がある。好きな場所に陣取って、結跏趺坐で吐く息吸う息の数をゆっくり数える。好きな時に始めて好きな時にやめていいので、小さい子なんかは、あっという間に姿を消す。
 これは、まずは自分と「向き合う」練習なのだが、これが、将来誰かのためにある場所にちゃんとゐることにつながっていく。同時にこれは、自分のためにゐてくれている何か、人だったり草だったり風だったり太陽だったりするのだけれど、その存在に気づく練習でもある。そして、これは、あるものの価値を役に立つか立たないかという基準だけで判断するのとは対極の姿勢にもつながっていく。道端の石ころも、時に僕のためにゐてくれる。
 同じ部屋のこちら側に僕がゐて、息を吐いたり吸ったりしている。思い思いの場所に座を占めた子どもたちも、黙って息を吸ったり吐いたりして、飽きたら静かに退場していく。特別な何かをするわけではないけれど、その時、みんながみんなのためにそこにゐる。(by52)

選り抜き『遊のいろは』(その六)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「体験」
 一度の体験が深く心に刻みこまれ、その後の人生が大きく変わる、そんなこともあるだろう。だが、そんな体験は、求めて得られるものではなく、受け手に準備が整った時、思いもよらぬ角度から降ってくるものだろう。
 広く浅く、休みの度にあちこちに出かけて味わった気になれる、そんな「体験」もあるらしい。「知的興味」が育ったり、「感動」が味わえたりするらしい。
 無料のお試しの別名の「体験」も巷には溢れている。
 でも、遊の田んぼのように、十二年かかってようやく(ひと通りの)完結を見る、そんな体験もある。
 世の中には「体験派」の方々もおられて、実際にやってみないとわからないとおっしゃる。でも、本当にそうだろうか。もしそうなら、戦争の悲惨さや無意味も一度「体験」しないと理解できないことになってしまう。そんな馬鹿な話はない。人間には、そんなことをしなくても済むように想像力や知性というものがある。
 でも、想像力や知性は、放っておくとおかしな方向に伸びたり逸れたり暴走したりし出す。それを防ぐには、絶えず「現実」によって軌道修正されることが必要で、米作りなら、天候や周囲の人間や田んぼの泥や虫や草と付き合わなければならない。手仕事や木工、料理なら、道具や素材に、音楽なら楽器に教えられなければならない。そして、どんな体験でも、自分のからだと向き合うという一事を抜かしてはならない。
 その意味で子どもの小さいうちはやっぱり「実体験」が大事で、それに要する期間を、田んぼについては仮に十二年と言ってみた。
 それで、十分に「実体験」を積み、その結果、持ち前の想像力という翼に磨きをかけ、いい形で「現実」からの離陸に成功したなら、(そして、願わくば、知性を知恵に進化させられたなら)、体験はあらゆる場で可能となるはずで、本を読むこと、絵画を観ること、音楽に触れることの中にも体験は生じる。around the cornerのそぞろ歩きが、世界一周の旅と等価になる。
 一度の体験が深く心に刻みこまれ、その後の人生が大きく変わる。たとえば、一行の詩との出会いをそんな体験に変えられるようになるための準備を、子どもたちは様々なアプローチで日々積み重ねている。(by52)

選り抜き『遊のいろは』(その五)

 遊への入学を考えていらっしゃる方には、まず『遊のいろは』を読んでいただくことになっているのですが、結構な量なので、「おすすめ」をチョイスしました。(かわら版の第200号と第201号のアンケートで遊の関係者の支持が多かったものです。)
 春休み期間中毎日一つご紹介します。さらなる興味が湧きおこって、全編を読んでいただけるようになれば幸いです。

「権威」
 七才から思春期までの子どもの中には純粋で美しい権威感情が目覚める、とルドルフ・シュタイナーは言う。この時期の子どもにとっては、周囲の尊敬する人が「これは正しい、これをおこなうべきだ」と言うことを試みるのが大きな幸福なのだ、と。
 この考えに抵抗感を示す人は多い。シュタイナーの権威という考えは大きな躓きの石だ。「権威」という語には、どうしてもマッチョな父権的なイメージがつきまとう。「この時期に特に成長するエーテル体が権威の上に発達しなければならないということを知らないと、文化はだらけたものになる」なんていうシュタイナーの表現にそんな匂いを嗅ぎとる人もいるかもしれない。
 では、こんな風に言い換えてみたらどうだろうか。「子どもたちはみんな、本当に素晴らしいものに感動することができる開かれた心を持っている。本当に偉大なもの、美しいものに対する憧れや、自分もそうなりたい、近づきたいという願いを持っている。高く大きく伸びていこうとする子どもたちに寄り添い支える支柱を、今仮に<権威>と呼ぶのだ」と。
 もちろん支柱であるためには、自分自身がしっかり立っている必要がある。「そんなのは無理です。」とおっしゃる向きもある。「自分の立つ場所さえわかりません。」とまで言われる方もいらっしゃる。「地を這う植物もあっていいんじゃないですか。」とおっしゃる方もあるかもしれない。でも、(だからこそ)こう言いたい。僕たちは、遊という大地を選んだ。大空に向かって伸びていく子どもたちのそばに立つことを、立ち続ける努力をすることを選択した。その努力の姿勢を見せる人が遊に於ける「権威」だ。
 支柱は、星空にまでは届かないが、その存在する方向を指し示すことはできる。(by53)